SAKAKIHARA

8月6日に思うこと

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私が子どもの頃は、8月6日は全校登校日と決まっていました。

いつもより少し早めに登校し、8時15分、町中にサイレンが鳴り始めると黙とう。

「原爆を許すまじ」を歌い、平和学習をする大切な一日でした。

ところが今は登校日でない学校もあるのだとか。

日本人なら誰でも歌えると思っていた「原爆を許すまじ」は、広島と長崎の人くらいしか知らないようですね。

この時期になると、戦争映像や、被爆者の証言などが放送されます。

関係ないことと思いたくなくて、被爆者の体験を想像しようとしますが、それはあまりにも壮絶で難しいのです。

それでも平和ボケしないよう、広島平和記念式典での知事のあさいつは、読むことにしています。

被爆80年目の8月6日を迎えるにあたり、原爆犠牲者の御霊に、広島県民を代表して謹んで哀悼の誠を捧げます。そして、今なお苦しみの絶えない被爆者や御遺族の皆様に、心からお見舞いを申し上げます。

草木も生えぬと言われた75年からはや5年、被爆から3代目の駅の開業など広島の街は大きく変わり、世界から観光客が押し寄せ、平和と繁栄を謳歌しています。しかし同時に、法と外交を基軸とする国際秩序は様変わりし、剥き出しの暴力が支配する世界へと変わりつつあり、私達は今、この繁栄が如何に脆弱なものであるかを痛感しています。

このような世の中だからこそ、核抑止が益々重要だと声高に叫ぶ人達がいます。しかし本当にそうなのでしょうか。確かに、戦争をできるだけ防ぐために抑止の概念は必要かもしれません。一方で、歴史が証明するように、ペロポネソス戦争以来古代ギリシャの昔から、力の均衡による抑止は繰り返し破られてきました。なぜなら、抑止とは、あくまで頭の中で構成された概念又は心理、つまりフィクションであり、万有引力の法則のような普遍の物理的真理ではないからです。

自信過剰な指導者の出現、突出したエゴ、高揚した民衆の圧力。あるいは誤解や錯誤により抑止は破られてきました。我が国も、力の均衡では圧倒的に不利と知りながらも、自ら太平洋戦争の端緒を切ったように、人間は必ずしも抑止論、特に核抑止論が前提とする合理的判断が常に働くとは限らないことを、身を以て示しています。

実際、核抑止も80年間無事に守られたわけではなく、核兵器使用手続の意図的な逸脱や核ミサイル発射拒否などにより、破綻寸前だった事例も歴史に記録されています。

国破れて山河あり。

かつては抑止が破られ国が荒廃しても、再建の礎は残っていました。

国守りて山河なし。

もし核による抑止が、歴史が証明するようにいつか破られて核戦争になれば、人類も地球も再生不能な惨禍に見舞われます。概念としての国家は守るが、国土も国民も復興不能な結末が有りうる安全保障に、どんな意味あるのでしょう。

抑止力とは、武力の均衡のみを指すものではなく、ソフトパワーや外交を含む広い概念であるはずです。そして、仮に破れても人類が存続可能になるよう、抑止力から核という要素を取り除かなければなりません。核抑止の維持に年間14兆円超が投入されていると言われていますが、その十分の一でも、核のない新たな安全保障のあり方を構築するために頭脳と資源を集中することこそが、今我々が力を入れるべきことです。

核兵器廃絶は決して遠くに見上げる北極星ではありません。被爆で崩壊した瓦礫に挟まれ身動きの取れなくなった被爆者が、暗闇の中、一筋の光に向かって一歩ずつ這い進み、最後は抜け出して生を掴んだように、実現しなければ死も意味し得る、現実的・具体的目標です。

“諦めるな。押し続けろ。進み続けろ。光が見えるだろう。そこに向かって這っていけ。”(THE NOBEL FOUNDATION, STOCKHOLM, 2017 広島県による翻訳※)

這い出せず、あるいは苦痛の中で命を奪われた数多くの原爆犠牲者の無念を晴らすためにも、我々も決して諦めず、粘り強く、核兵器廃絶という光に向けて這い進み、人類の、地球の生と安全を勝ち取ろうではありませんか。

広島県として、核兵器廃絶への歩みを決して止めることのないことを誓い申し上げて、平和へのメッセージといたします。

令和7年8月6日
広島県知事湯崎英彦

私の祖父も戦死。当時2歳だった母には、父親の記憶がないと言います。

祖母は「男前だった。とにかく優しかった」と、いつも嬉しそうに写真を見ていたけど、どれほど辛い思いをしたのでしょう。

こちらは大切な友人(人生の大先輩)が送ってきてくださった絵手紙。

ともに戦争のない世界を願っています